神戸大学マンドリンクラブは2015年に創部100周年を迎えました。それを記念し、創部100周年記念誌を作成しております。
・神戸大学マンドリンクラブ100th Anniversary 記念誌
・2015年8月1日発行
・国立国会図書館本館に蔵書(閲覧請求番号:KD268-L54)
ここではその一部を公開いたします。
弦友会会員の皆様には、折々にお手元の記念誌を手にとってご覧いただけましたら幸いです。
11回生 永松 道晴
私が三井物産に就職して大阪支店に配属された昭和38年(1963年)といえば翌年に東京オリンピック開催を控えて新幹線の建設はじめ日本中が大忙し、他の商社に就職した我々11回生も土日休日なし毎晩残業が当たり前の時代でした。それでも各商社では社員厚生のために運動部・文化部での活動を奨励して補助金まで出してくれた良き時代でした。そこで女子社員も含めて毎月残業が100時間を超えることもあるハードで味気ない労働環境に甘んじていいのか、それなら息抜きにマンドリンクラブを、創ろうと一念発起、支店内の60の部課にその趣意書を回覧したら、何と女性50人、男性5人が募集に応じて来ました。これが三井物産ギター&マンドリン(MGM)の始まりです。同時に入社した11回生で1st Mandolinだった豊田(旧姓鈴木)正子さん(現楽楽神戸会員)、関学マンドリンのトップ奏者だった東義郎さん(後箕面マンドリンクラブを創立)、更に関学ギター部の山室紘一さん(後ヤマハ音楽振興会、大阪芸術大学教授)の指導で三井物産中之島寮での練習に励みました。
一方、11回生でマネージャーだった広瀬隆さんが伊藤忠商事に入社され、船場に集中していた紡績会社のマンドリン経験者とも連携して、伊藤忠商事マンドリンクラブを立ち上げました。そのころ関西学院大学や神戸商科大学、同志社大学のマンドリンクラブ出身者が兼松、安宅産業でもマンドリンクラブを結成して実カを蓄えて来ていました。商売の面では熾烈な競争相手である商社も、マンドリンとなると一致協カ、広瀬隆さんのイニシャティブで商社マンドリン連盟が結成され、連盟主催の合同演奏会が北御堂会館で関学マンドリンクラブの指導者・大葉裕さん指揮のもとで開催されました。
そのころ大阪では毎年中之島のフェスティバルホールで「日本産業音楽祭」が開催され、企業別の管弦楽団や合唱団などが参加していました。三井物産MGMも関電ホール・毎日ホールなどでの定期演奏会を開催するところまで充実して来ましたが、この音楽祭でフェスティバルホールの晴れ舞台に上ることが目標となっていました。そのころには商社マンドリン連盟の尽カでこの音楽祭にマンドリンアンサンブル部門が出来て、各商社のマンドリンクラブがフェスティバルホールの舞台でその実カを競うまでになりました。三井物産MGMも結成して3年目に山室紘一さんの指揮で優秀賞を獲得しました。
企業では3年前後で転勤があり、特に商社では海外転勤がつきものです。大学のように4年という安定したローテーションは組めませんし、拘束時間の長い勤務というハンディもあって、企業内だけでのクラブ活動には限界があります。そこで近隣の三井グループ企業である東レ、三井不動産、トーメン等から協カメンバーとして参加してもらいました。私は昭和45年(1970年)にメルボルンに転勤、MGMを去りました。そして5年後に大阪に帰任した時には、その間にオイルショックがあり経済情勢が一変していたこともあって、MGMも商社マンドリン連盟も、そして産業音楽祭も活動を停止していました。このように大学を卒業して50有余年、それぞれが波乱に満ちた時代の変遷をくぐり抜けて、現在は MGM OB・OG会が結成されて毎年楽器を持ち寄って一泊の同窓会を楽しんでいます。1ドルが¥360から一時的に¥80切るという商社にとってもメーカーにとっても「想定外」の企業環境で、よくもここまで来たものだ、これもマンドリンを縁とする仲問の連帯という支えがあったればこそ、との感慨を新たにしています。