神戸大学マンドリンクラブは2015年に創部100周年を迎えました。それを記念し、創部100周年記念誌を作成しております。
・神戸大学マンドリンクラブ100th Anniversary 記念誌
・2015年8月1日発行
・国立国会図書館本館に蔵書(閲覧請求番号:KD268-L54)
ここではその一部を公開いたします。
弦友会会員の皆様には、折々にお手元の記念誌を手にとってご覧いただけましたら幸いです。
14回生 下浦 靖
秋の深まりゆくこの時期(今この原稿を書いている)には、黄綬褒章などでよく耳にする『この道50年』の言葉。天と地、月とスッボンほどの差こそあれ、私もマンドリンを手にして早やそのくらいの道のりを歩いてきたのか、と最近つくづく実感しています。
高校を卒業する時に、校長先生からはなむけに「趣味でもいいから何かーつでも没頭できるものがあると人生楽しいよ」という言葉を頂き、たまたま家にあったギターに触れたのがわがマンドリン人生の始まりでした。
先日、小学校卒業以来58年ぶりに訪ねた旧友にも、「下ちゃんと音楽は一番遠い存在で今でも想像がつかない」なんて不思議がられたが、当時としては無理もありませんでした。
姫路分校の部室の扉をたたき、ギターパートの一員として「バグダッドの太守序曲」などの演奏に曲がりなりにも参加させてもらいました。六甲台に移ってからはドラパートとして精進(?)して数々の迷演奏を経験しながら無事卒業の日を迎えたのがつい昨日のように懐かしく思い出されます。
銀行に就職して、まず大阪勤務時代は労音に所属していたが、やはり転勤が多く、東京に引っ越してから一時楽器から遠ざかりました。
本当のマンドリン人生はここから始まるのです。
運命づけたのは浜松転勤でした。赴任まもなく、妻(15回生)が児童館で何気なく手にした「浜松マンドリンオーケストラメンバー募集」のチラシ。早速妻とニ人で顔を出してから、翌年転勤で浜松を離れるまで、第2回定演を挟んで思い出深い2年問でした。
その移二度目の東京転勤で横浜に移ってからまもなくの話。同じ住宅地で子供がピアノ教室に通いだし、その発表会での出来事。盛り上げに親たちも適当に楽器を持ち寄って演奏したところ意外と大好評。ここがマンドリンアンサンブル結成の原点でした。親たちがこのときの演奏の楽しさを忘れられず、再び集まって「パストラーレ」というアンサンブル名をつけ、ユニフォームとワッペンを作り、すぐさま自治会館で発表会(第1回定期演奏会〕をしよう、まで一気に進んでしまいました。
以来、ひとかどのオーケストラに成長する23年余の間、妻やTさん(13回生)、Wさん(15回生)たちの支えを借りながら代表を務めさせてもらい、あり余るほどの「楽しきマンドリン人生」を経験できたのです。
とくに記憶に残る思い出を顧みますと、バブルの時代は、マンドリンに限らずいろいろな趣味や習い事は日陰の身で、「そんな暇があったら外為の勉強のーつもしろ」的時代でした。ところがバブル崩壊後の意識の変化は目まぐるしく、手のひらを返したように「音楽による永年の地域貢献は素晴らしいことだ」と、頭取賞受賞にまで発展したから驚きます。時には秘かに隠れながらでも続けてきた甲斐があったというものです。
もうひとつの素晴らしい思い出。阪神淡路大震災の三ヶ月前にアンサンブル・パストラーレの神戸公演が実現したことです。同期生はもちろんKUMCのOBの皆さんの絶大なご協カのもと、娘夫婦、息子も出演して、《神戸市産業振興センターホール》で神戸演奏会を開催し大成功裡に終わりました。その時の感動は今もはっきりと脳裏に刻まれています。
年全生活に入った今はパストラーレも卒業し,ニつのアンサンブルを指導しながら、妻や39回生のOさん等と「アンサンブル・ハミングバード」なるものを結成し、地元のオファーに応える形で文宇通りボランティア演奏活動に明け暮れています。一方、近県にも友人の輪が広がり、練習や本番で、田舎暮らしを始めた南箱根の山荘から神奈川、山梨、静岡を股に車で東奔西走する毎日。多分ボケるまでこんな生活が続く?嬉しきかな音楽の輪、楽しきかなわがマンドリン人生・・・・・・。