神戸大学マンドリンクラブは2015年に創部100周年を迎えました。それを記念し、創部100周年記念誌を作成しております。
・神戸大学マンドリンクラブ100th Anniversary 記念誌
・2015年8月1日発行
・国立国会図書館本館に蔵書(閲覧請求番号:KD268-L54)
ここではその一部を公開いたします。
弦友会会員の皆様には、折々にお手元の記念誌を手にとってご覧いただけましたら幸いです。
(第10回定期演奏会記念として1965年12月8日発行された小史をそのまま掲載しました)
<戦 前>
大正4年と云えば、1915年第一次大戦頃の事ですが、我々の大先輩である山中直一氏が或日、神戸高商ヘマンドリンを持ってこられました。音楽部が自分の弾ける楽器を特ちよって合奏を楽しんでいたのです。これが我々マンクラの誕生の日であると云えるかもしれません。当時マンドリンは、珍しい楽器でした。
この頃は、今とちがって、音楽部というものがあってその中にグリー、オーケストラ、マンドリンがあったので、自然この三つは、仲良く溶けあって、演奏会も一緒に行い、合唱の伴奏をマンドリンが受持つということも行われました。
大正10年頃も、また同好者の集まりで、組織的なものは何もなく、一人の音楽愛好者はグリーもオーケストラもマンドリンも、何でも出来るものを、 俗に云うかけもちでやっていました。この頃には、 山田直之介氏が、山中直一氏から受けついで、何もかもやっておられました。
やがてマンドリンをもてあそんでいた者が集まってクラブを組織、メンバーは主として本科一年と予科生とで、校内の商品陳列館(通称赤煉瓦)で練習をしました。メンパーは十数名、時としてピアノ、トライアングル、タンブリンの応援を頼む事もありましたが、人数が少ないので規約もく、 部費は適当に持寄りということで問題はありませんでした。対外的な動きも活発で、関学、同志社等のクラブと京都で共演したり、九州方面で他大学の援助で演奏会をひらいたり、校内の催し物にも参加しました。大正11年頃に隆盛期を迎えましたが、大正12,3年、卒業生が出た後は、一時さびれましたが、昭和に入って再び盛んになりました。昭和4年に、高商が昇格して、ひと頃は、高商と、 商大とニつのクラブが並立していましたが、やがて一本化し6,7年に有村良治氏の御尽カで隆盛期を迎えました。当時、学校は葺合町筒井村筒井ヶ丘(現在葺合区野崎通)にあり、練習は、その正面玄関を入ってすぐの講堂で行い、発表会もそこで、ひらかれました。"学校の部のーつとして活動すること"というのが、運営方針で、その方法は自由でした。
第一回定期演奏会が、YMCAで昭和6年春に開かれ、曲目は麦祭、マンドリンの群、オラッチオ兄妹とクリアッチオ兄弟など、昔から今と変らない曲を演奏をしておリ、もしテープやレコード になって残っていたら、さぞ楽しいことになるだろうと思われます。秋には試験休みを利用して、 一回目の演奏旅行を行い、クラブ員の縁故で大分高商をたよりに、別府に出かけ、翌年も九州方面へ出かけました。当時の入場料は30銭(所により50銭)、現在では、ちょっとピンと来ない料金で演奏会が開かれましたが授業開始で、学校側から反対があり、急拠プログラムを変更し、神商OBに代演してもらう一幕もありました。その頃のメンバーは、20〜25人で、足りない時は、民問の方に来ていただく事もありました。定演はその后、春秋一回ずつ都合年二回ひらかれて、十数回続きます。昭和8年春には、大阪商大、京都商大、神大と三大学合同演奏会が大阪朝日会館で、又秋には、 東京商大オーケストラと神大マンドリンが名古屋市民会館で合同演奏会を開く等、文字通り東西の交流が行われ、当時の技術、マネージ面共に充 実していた事がうかがわれます。又、この頃、現在もある、マンドローネが購入されましたが、300円というものでした。パート編成は1st3、2nd3、 ドラ3、ギター4、リュート1、マンドローネ1、 マンドセロ1、フルート、クラリネットはプロから来てもらいました。又この頃はソプラノ独唱との共演がしばしばなされています。
こうしてーつの隆盛期が築かれましたが、次に 隆盛期を迎えるのが、昭和14〜16年ぐらいになります。当時も、オーケストラとマンドリンは友好的で、親密で、互いに応援しあっていた様です。部貝は十数名、多い時でニ十数名、定演には御影公会堂と海員会館を交互に使用しました。その会場使用料や、プログラム印刷費、楽器修理費などは、 年々学校から出る部費でまかなわれていたため、 新規に楽器を購入するのは仲々思うにまかせませんでした。演奏会は無料で、人数の足りない所は、県立神戸高商(現商大)又諸先輩に参加を依頼するなどして間かれました。定演は14年12月に第15 回、翌15年には第16回が開かれましたが、この時など、満貝につき入場おことわりと云う程聴衆を動員出来ました。曲目、踊る小花、マンドリンの群、ムニエルの宝玉の舞曲、牧場にてなど。
この当時は定演以外にも神戸商大音楽部合同演奏会、関西プレクトラム連盟(神戸商大、大阪商大、大阪帝大、関学、関大)の演奏会が行われ、NHK大阪スタジオからの放送に出る等広範囲な活動でした。
活発なのは、学生だけでなく、卒業生も、淡水会、
凌霜会合奏団というのをつくって、発表演奏会をたびたび、開いておられます。おなじみのマンドリニストの群,古戦場の秋、アルモール地方などの曲目が演奏されました。戦時中のこととて、マンドリンなんて、と思われますが、選曲、演奏については外部の干渉はそれ程気にしなくてもよかったので、暗い生活を潤いあるものとしたのです。しかし時代を反映して、演奏会の場合は、ステージに日章旗を飾り、国民儀礼をして、君が代、愛国行進曲を必ず演奏したものでしたし、又白衣の戦士を慰問したりしています。この時のクラブ名、神戸商大音楽部マンドリン班というものでした。
戦争のために17,8年漸次さびれていき、最后には、 10名ばかりで、マンドリンをクラリネット、サキソフォン、トランペットなどの管に持ちかえて、 建艦献金募集のタべを催した次第でした。
く戦 後>
こうして一時さびれたクラブも、戦后国民が落着きをとりもどし始めた22年4月に、神戸経済大学 (昭和19年高大から神戸経済大学に改名)マンドリンクラブとして再発足しました。 最初は10名ほどが、先輩の家に散らばっていた楽器を集めに奔走し、学生集会所の片すみで、初めて合奏した曲は、 ほこりまみれになった「山嶽詩」でした。今とちがって小さなクラブでしたから、合奏だけでなく人生も語れば、政治や学問についても話し合う事ができたのでしょう。23年11月にグリークラブの賛助という形で初めて演奏の機会を得ましたが、翌年第一回定演が開かれました。当時の問題点は今とは逆にメンパーが足りないことでしたし又、楽譜さがしも骨の折れる仕事でした。古本屋をさがしてまわったり、持っている人もあるときくと、そ の家におしかけていって写したりしたものでした。それでも24年に経大、商大合同第一回の演奏会が開かれてから、相互に曲目を交換して次第にレパートリーがふえていきました。当時二つの大学は合同演奏会をひらく他にも賛助出演するなど、互いに援助しあっていました。25年には、ニ度ばかり、 先輩を招いての演奏会を開き、なごやかでたのしいひとときをすごしました。今このような会を持つことはむづかしいかもわかりませんが、何らかの形で先輩の方々との交流を計りたいものです。
タコ足大学の悩みは、24年に新制大学が発足して以来、現在尚残っている問題ですが、この頃も又練習のあつまりを悪くする条件でした。練習は六甲の集会所で週一回3,4時間しました。人教が少いと一人一人が、がんばらなければなりませんでしたが、それだけに、はりのあるクラブ活動であったろうと思います。昭和26年に神戸放送で兵庫県の大学を紹介する番組に出演しました。当時は楽しむのが目的で、平易な曲が多く、演奏会も知合の人々のみ100人位にきいてもらって満足していました。28年の暮に、部費稼ぎと、ギターの人のハワイアンの腕だめしにダンスパーティをやろうということになりましたが、切符のなわばり争いで、グレン隊と接触し、結局赤字を出したのも今は懐しい思い出となりました。岡山県の玉の島へ演奏旅行に出かけ尼寺で十三夜を弾き尼さんに喜こばれたのも、楽しい思い出です。
新制大学になって校舎が分散した事、唯一の総練習場だった六甲講堂が接収されたことなどでクラブは衰退していき30年頃には専らスペインギターのみの古典ギター部にかわりました。当時は部室も練習場もなく、住吉の地下教室を無断で使用していた状態で6名ばかりのささやかなクラブでした。クラブとして登録はしてありましたが、新クラブのこと故、活動部費もとれずにいましたが、その頃はギター愛好会という形をねらいとしていました。31年に第一回の研究発表演奏会を六甲職員食堂で開いて以来、住吉、御影、姫路の各学舎で年ニ回位ずつ、発表を行いましたが、大ていの場合、月村氏や松田氏の門下生の協賛を受けて、第5回まで続きました。32年5月に、一度KCCホールで100円の入場料で演奏会を行いましたが、この時は超満員で、結局5000円の純益をえました。しかし、ギターはソロが多く、上違にひまがかかるというところから33年末月村氏のすすめにより、マンドリンクラブに変えることにし、その形は復部ということになりました。34年4月には相当数の部員を得たため指導に苦心しましたが、それを補うために月村、松田両氏に個人的な指導を受けにいきました。6月に文化総部に加入が承認され、以后今日に到っています。マンドリンクラブとしての歩きはじめは13名の少人数、家族的雰囲気を売物とし ており有馬の多聞寺で第一回の合宿をおこない11 月に第一回の済奏会を講堂でひらきました。 翌年春季合宿の折、地元中学校で演奏会を開き大いに喜ばれたことがありました。こういう活動も、大 学サークルのいき方として、意義のあることと思いますが、現在すぐ実行に移すには、問題も多い事と思います。
35年に入って春季第一回演奏会が農業会館で開かれましたが、メンバーは1st6、2nd22、 ドラ5、セロ2、ローネ1、ギター15、ペース1でした。同じく35年12月6日、神戸国際会館で復活第一回、 戦后通算第5回の定演が開かれました。松蔭女子短期大学の女声コーラスを賛助に得、記念すべき日となりました。その后、37年から春季演奏会は姫路で行われるようになりましたが、第3回をもって、神大姫路分校の廃止の為、一応終ることになりました。対外的な活動としては、36年に神戸の六つの大学 - 神戸商科大学、神戸大学、神戸山手女子短期大学、神戸女子薬科大学、神戸商船大学、 神戸医科大学が集まり、神戸六大学演奏会が開かれました。40年、神戸医大の神大移管により、神戸学生連盟と名をあらため、今年第五回の定期演 奏会を迎えました。又、全日本マンドリン連盟に加入しており、38年、連盟全国からの選抜員をもって、アメリカに演奏旅行を行い、我校からは、1st マンドリン1名が参加し、マンドリンの珍しいアメ リカで好評を博しました。
合宿地さがしは、大世帯故非常にむつかしいものですが、これまでは、①初めての所、②大人数宿泊出来る所、③合奏場のある所等と注文をつけながらも、夏には季節がら信州方面へ、秋は近づく演奏会の為の強化合宿を、神戸近辺でそして、 春は暖い南の方へと出向いて来ました。それぞれ、 新入生の親睦の為とか、技術向上とか、目的をもっており、クラブの重要且楽しい行事となっています。 38, 39, 40年と、中国、四国、九州へ演奏旅行に行って来ましたが、凌霜会初め、神大の又、マンクラの先輩の方々に一方ならぬお世話をいただき一応の成功をおさめることができました。このような演奏旅行もおろそかには出来ませんが何と云っても、一番大きな行事は12月の定期演奏会です。 回を重ねて今年は第10回を迎えることとなりました。 1st14,、2nd 36、ドラ14、セロ7、ローネ1、ギ ター44、ベース6、フルート2という大メンバーで4部構成のステージを持ち、一年生はこの中第1 部にのみ出演します。
一時はどこまで増えるのかと思われたクラブ員も、 この2,3年で約130名という線に安定してきました。この多人数のクラブ員をかかえて、かつては想像もできなかったいろいろの問題が生じてきました。一人一人がクラブにとって大切なメンバーであるという自覚が持ちにくくなったため、クラブ員の最低の義務である練習に欠席するとか、一方、技術一点ばりでつまらないなどという不満がでてきたりするわけです。このような問題はあるとしてもそこは音楽を愛するもの故演奏会をめざして、共に励む時、心と心がしっかりと結びつきます。
クラブの形態、クラブ員の多少等時代によって差はあれ、学生時代にマンドリン音楽を通じて、友と親しみ共に合奏した思い出はいつまでも心に残ることでしょう。
創設期の思出
有村 良治
昭和6年大学へ入学した頃同志が集まってマンドリンクラブを再興し昭和7年には新入生を加えて次第にクラブ員も揃い、と申しましても精々廿人に満たないマンドリンオーケストラでありました。春秋ニ回演奏会を開催したが演奏曲目の洗濯には相当苦労をし先づ先づ会心の曲を揃え、何回も練習を重ね一糸乱れぬ演奏をやったものと自負していました。当時の曲目で印象に残って居るものは「メリヤの平原に立ちて」「マンドリンの群」「ギリシャ 風テーマによる序曲」「武井守成作曲のもの」「菅原明朗編曲のゴエスカスの川奏曲」等でありました。中国九州四国にかけて十日余の演奏旅行をやりましたが当時のメンバーと消息を保って居るのはニ、 三人に過ぎないが、久振りに集まり当時の回想談をしたり、出来れば合奏をしたいものと 願っていますが、此夢は先ず実現六ケ敷しいものと思っています。
演奏旅行は当時としては盛大なもので、広島徳山博多別府松山高松と六ヶ所でありました。 入場料は博多が五十銭で他は丗銭徴収しましたが何れも多勢の人がきゝに来てくれたので主催者の方にも御迷惑をかけずに済みました。学生の素人音楽としては当時としてはマンドリン合奏は先ず手頃なものでありました。つまり此種の楽器の合奏は割合にきけるものと云うものでありました。外の学生の音楽と比較しまして。
嵐の中で
末永 山彦(商大14回)
私どもの学生時代といえば、「戦争」に、追いかけられどうしでした。小学では、満州事変、中学では、支耶事変、そして、大学の在学中には、とうとう、軍隊というものに、とっつかまってしまって、六甲台から、ひきずりおとされ、戦線につれてゆかれました。
大陸での作戦が、深みに足をとられ、遂には世界戦争の立役者を買って出るに及んで、国民の生活はーつの目的のために奉仕させられることになりました。魂に制服を着せて、向う三軒両隣、同じことをやっておればよい状態は、考え様では、安易なことではありましたが、学生時代という、一生で、最も愉しかるべき青春時代のあり方としては、淋しい限りでありました。学生だからといって決して甘やかしてはくれませんでした。むしろ 国民精神作興(こんな言葉も使わせられた)の第一線に立たされました。
六甲台でも、青空の下、松のみどりに映えてい た白い時計台の学舎は、コールタールに黒く汚され、講義には出なくとも、週一回、ニ時間ぶっ通しの軍隊教練のためには、ゲートルをつけた重い足を、運動場に運ぶことはせねばなりませんでした。
学園で、学長よりも偉い人は、配属将校でありました。
「商業」という、生産的でない営みはケシカラヌと考えられて、わが学園は「神戸経済大学」、東京商大は「東京産業大学」と改名させられる - 敵性語はいけない、ピアノは洋琴といえ、ヴァイオリンは提琴だ、レコードは音盤だ-
こんな雰囲気の中で、しかしわがマンドリン・クラブは、ついに全学徒に動員が下って、丘が、空っぽになってしまう前日まで、その活動の燈を絶やさなかったように思います。
「同年輩の者が、命を的に前線で戦っているときに、楽器をかきならす文弱の徒」という、無言の非難を、知ってか、知らずか、正門下にあった、学生集会所の練習場からは、日ごと、おもいおもいの絃音が流れていました。街での発表会には、戦局の深刻化と共に、いくら「士気昂揚」色を盛り込んでも、やはりうしろめたさが加わってゆくのを、どうすることも出来ませんでした。
技術的には、最も拙いものであったにちがいない、 その頃の海員会館での春秋各一回の演奏会は、しかしながら、もうどこにも殆ど見当たらなくなってしまっていた自由の風を、一夜の、楽の音にのせて呼び覚せてくれるくらいの意義は、あったように思います。その毎回のフアンであった、戦時乙女も、今はすでによいおばさんでありましょう。
「商神」に代わるものとして、当時の河部学生主事の作詞に、私が作曲するという大それたことを企てたのも、その頃のことであります。
昭十八年十日、一期上級の先輩の出陣を、悲壮な感慨を以て見送った私どもは、ーヶ月ののち突如として、文科系全学徒の、徴兵猶予停止という大命令に遭い、ノートを閉ぢ、角帽を捨てて、戦士として、祖国の急に、丘を後にしなければなりませんでした。
ケースに納められた楽器 -そのいくつかは、 永久に、もとの主の手に抱かれることはなかったのです。集会所での練習のこと、音楽会のことを、 想いうかべながら、戦場に散っていったわが楽友も数少なくなかったかろ-
敗戦。そして混乱、わが身を持してゆくだけに精一っぱいで、自分らが、最後に消して来た丘の燈がどうなっているのか、知らぬまゝに来てしまった。ポスターなどで、マンドリン・クラブの活動を知っても、その問の断層の放に、何か、とっつき難いものをかんじていました。
この度、現役の方より、熱心なご質問などよせていたゞき、心暖まるおもいで、何か気の利いたお答えをしなければと頭をひねりました。
しかし、「今日の問題」のおかれた環境と、私どもの時代とでは、余りの相違。経験を語ってご 参考に供しようにも、その内客まことにオソマツ、 嵐の前に、小さな燈を守ることにせい一ぱいだった次第を小文に托する他に能がなさそう。
たゞ、いつの時代を通じても、学生の合奏として、マンドリン・オーケストラは、最良のものとおもいます。交響楽団は各楽器のプロ級の演奏家によってのみ、鑑賞にたえ得る演奏が可能であって、学生の手をもってしては、無理というものでしょう。 まして、他の学校や、プロをかき集めての、演奏会のための演奏は無意味に近い。その点マンドリン・オーケストラは、いさゝかまずくてもきける。
もうひとつ、こちらのよいところは、どんな曲を、演奏にのせてみても、下品に惰さないことです。上品、下品といった表現は、あいまいすぎるようですが、学生のやる音楽が下品でないことは、大いに結構です。
学生に借ものゝハワイアン・ミュジックだの、ホット・ジャズなどやられるのを、私は快く思いません。
学生音楽としての演奏会のための演奏は無意味に近いその点マンドリン・オーケストラは、下火のように見えていながら、決して廃れはしないでしょう。それはいかにもすがすがしい。
どうか、青春の哀歓をぶちまけて、その火をーそう大きくしてまた次の人々の事に渡していってほしいものです(終)
ギター部の思い出
小畠 礼子
"古典ギター演奏会"と書かれた手づくりの小さなポスターが、御影学舎の食堂で遅い昼食をしていた私の目に入ったのは、昭和32年の5月も終りのころでした。
私はといえば、大学生活も2年目に入っていたころでしたが、人問としてのふれ合いの少ない生活に、何かしら満たされないものを感じているときでした。
ギターと聞いても、当時は湯の町エレジーで代表されるような歌謡曲ギターしか知りませんでした。しかし、その音色には、人の心の底深く浸み入るものがあることに、心魅かれてはおりました。たまたま古典と書かれていたことで、強い関心を持ち、いったいどんなものなのだろうと演奏を聞いてみる気持になったのでした。
人気もまばらな御影学舎の103号教室で古典ギターなるものを初めて耳にしました。軽やかな指先が弦にふれメロデーが流れ出した時、今まで知っていたギターに対するイメージとはちがった上品な美しさに心うばわれておりました。流れるようなトレモロの美しさが、"アルハンブラの思い出"の曲とともに印象深く、さっそく入部を申し出たのでした。しかし部員の方は男子ばかりで、女子が弾くものではなかったのかしらと躊躇してしまいました。幸い先輩諸氏が暖かく励まして下さったので、意を強くして、ギターととりくむことになりました。
当時のメンバーは、数岡、梅宮、高内、前芝、西尾諸氏、それに、ギター部創設の中心となられた松田二朗氏が指導なさっていました。この演奏会が、第ニ回演奏会だったと聞いております。
翌33年5月に、ギター部としては初めての学舎外での演奏会をもつことになりました。ギターに手をふれて、1年になるかならぬ私を含めて部員数5名、小じんまりと、それだけに、部員同志も親しく、なごやかな家族的なクラブでした。人問的なふれ合いも深く、このクラブでの生活は、今でも印象深く心に残っております。
演奏会にそなえて、3日間の合宿を、垂水の海の家を借りて行ないました。食事時間以外は、個 人で或いは、合奏のメンバーで練習を続け、夜には、テープにとったものをかけて、みんなで批評しあいました。テープに録音している問にいっしょに入った波の音が、曲の合間にザァーッと聞こえてくるのも情緒がありました。
先輩の方々からは、技術的なものをはじめ、曲の感じ方、あらわし方に到るまで、範を示して、親切に指導していただきました。なかなかわからない私に、何度もくり返し弾いて聞かせて下さったのを思い出します。こんなところは、少人数ならではのことでしょう。また、先輩の方々の弾かれるのをじっと聞いているのもよい勉強でした。楽器に対するいたわり、練習の心構えも、この合宿中に自然に教わりました。同じ音でも、美しく冴えた音を出すために、一音一音に細心の注意をはらって弾かれるのを見て、たゞ音を出すのでなく、 美しい音を出すことの必要なことを感じました。
この合宿中、後にマンドリンクラブ復活の中心となって活躍して下さった今崎良平氏が、松田門下生であったことから、顔をみせられ、合宿後、入部されております。
当時はクラブとしての予算ももらっておらず、 練習も定まった場所がなく、空いている教室をさがしては、練習するという状態が続きます。
演奏会は、神戸新聞会館7階KCCホールを借りて開かれ入場料をとった最初の演奏会でもありました。
演奏会後、御影学舎、続いて、初めて姫路学舎での演奏会を開き、ギター部姫路部員若干名が生まれた。
同じ年の10、11月と、部員募集をかねて、住吉学舎、六甲学舎で、五回目の演奏会を催しました。 会後、反省会をもち、ギターだけでは部員が集まりにくいこと、集まったとしても、演奏ができるまでに相当の日月を要すること、以前にマンドリンクラブがあったこと、などから、マンドリンクラブを復活しては、の声が出てきたのでした。このとき、先輩の方から、私たちがバトンを受けつぎました。このころに、後に永く指揮者をつとめられた東勝義氏が入部されております。
翌34年春、マンドリンクラブが復活されることになります。
なお、古典ギター部のメンバーによる最後の演奏は、34年5月の開学記念祭のときの六甲講堂におけるもので、この時は、すでに就職なさっていた先輩の方々に来ていただいて、演奏をお願いしたのでした。
復興期のマンドリンクラブのこと
元マネージャー 広瀬 隆(B-11)
当マンドリンクラブも、今年で通算第10回(復活後第6回)の定期演奏会を持つと言う。それを記念してクラブの部史を編集するのでクラブの復興期について何か書くように依頼を受けました。かつて僕は現役時代、室谷君(第2代指揮者)と協同でクラブの歴史を表街道、裏街道から書いておこうじゃないかと約束していたが果せませんでした。昭和37年6月発行のオアンス第4号に彼が「先輩のこと」で書いているのを処々引用させてもらってその一端を果したいと思います。古いオアシスや写真帳などを引っぱり出して見たら、なつかしさで胸が一杯になってしまいました。
さて復興期は人数も少なかったので、誰でも名前と顔は思い出せます。当時を知っている人の為に出来るだけ部員の名前も登場させましよう。かつてこれもオアシスに第一代部長の会沢氏が「歩み出すまでを顧りみて」と題して次のように書いています。「・・・・非常な技術と音楽性を持ち文宇通り古典ギター部を支え、動かして来た4年生が卒業することになって、私達のカとのへだたりがあまりにも大きかったので私達が引き継いだとしても、 以前と同じような古典ギター部として活動する事は少し無理と思わざるを得なかった。・・・・同じ努カするならもっと大きい可能性をもつマンドリンクラブに発展させようという事になった。その起動 になったのは言うまでもなく、古典ギター部の頃から正確な頭脳と綿密な計画性と最良の要領と超人的な行動カでもって、部を進めて来た今崎氏である事は云うまでもない。後のマンドリンクラブの歩みも、それを支え、頑張り抜いた部員一同の力もさることながら誰だって彼を抜いて今日のマ ンドリンクラブを観ることは出来ないだろう。・・・・ それから私達は春の青空の向うの方に暖かいマンドリン音楽と商大や明大より充実した在るべき我マンドリンクラブのステージ上の姿を夢みた。」と。その今崎氏が東西奔走して下さったおかげでクラブは昭和34年の6月29日に正式に認可されました。当時の練習は週一回土曜日の午後御影分校一階の教室で行われました。マンドリンとギターの斉奏ばかりで曲目は「ジプシーの月」「ドナウ河の漣」 フォスターの「Old FoIks」でありました。ほとんどが初心者であったので全員月村先生の所ヘレッスンに通うことになり、先生も神大生に限り月500 円でみて下さいました。
そのうち夏休みには合宿を行うと言って今崎さんがプリントを配ってくれました。音楽部の合宿なんて一体何をするのかなと思いながら参加しました。13人ほとんど全員集まりました。場所は有馬の「多聞寺」。当時コピスターなんて気のきいた物には気がつかなかった為、タ食後には全員でいろんな話しをしながら各自の譜を写譜していました。曲目は「マンドリニストのワルツ」でいよいよ合奏になりました。指揮者と言って特別にはまだ居なかったので当時部長の会沢さんがお寺の大太鼓をドン、ドン打ち鳴らして拍子をとられました。それでも練習は相当きつかったと記憶しています。やっとマンドリンクラブの合宿というものの概念がはっきリして来ました。この合宿の効果はてきめんで、ほとんど弾けなかった連中が一応合奏らしいものを作り上げる様になったから不思議であります。
1stが2人、2ndが3人、ドラが1人、ギターが7人でありました。当時の写真を見て参加者を 列記しますと。(敬称略)8回生(4年)小畠、 9回(3年)会沢、今崎、大野、田中、川上、10 回(2年)藤岡、11回(1年)室谷、広瀬、宮崎、 奥田、白土、田中以上13人。夏休みが明け、学校が始まってから東さんが指揮者として登場されたと記憶しています。秋になるとぼちぼち部員も増えてきました。室谷君の記録によると『・・・・・・秋になると坂田さん、川ロさん、藤原さん、安川さん、柳さん、大木さん、それに少しおくれて高坂さん、川ロさん、松田さんと、ぞくぞくと2年生の美しく親切な、学年では先輩の方々が入って来られたちまち、クラブの中は花が咲いた様になった。当時男子部員達は「自分が居るから、こうまで女性が入って来る」と悦に入っていか・・・・』
さて学内でクラブの存在を認めてもらう為に各学舎を演奏して回ることになりましたが宣伝力の不足の為か、六甲台教育学部、姫路分校と3回のコンサート合わせて聴衆が100名以下といった具合、それでも演奏会側の我々は得意でした。その年の冬になるとそろそろオリジナルらいい曲をかじりはじめました。即ち「古戦場の秋」等です。校舎の中での練習は寒すぎると言うので、葺合のYMCAを借り小さなストーブをかこんで練習したりしました。この頃は東コンダクターも、調絃は不慣れだったのか、練習を見に来られた先輩のギターリストである松田ニ朗氏に「なんや!この調絃は!バラバラヤナイカ!こんなんは合奏とちごうて、 合ちょうや!」とーかつされたものでした。
年が明けて昭和35年の春には備州の美作、真賀温泉で合宿を行いました。総勢が33人になっていましたがまだまだ家族的な雰囲気は保たれていました。 (曲目)「山嶽詩」、「古戦場の秋」、「妖精のおどり」、「激情」など徹底的にしぼられました。又又室谷君に登場を願いましょう。「・・・・この時の合宿では12時以後になると、今崎さん、東さんが夜のムードをかもし出し、そのひく美しいギターのしらべに吸い寄せられて四畳半の雀用の室がねまき姿の女性やタワシを持った広瀬君などで満員となり、遅くまで、タンゴを引けの、アルハンブラがいいのと騒いだ。その挙句、翌朝は「おこし魔」と化した藤岡部長とそのうしろに今崎大先輩のふとんの「はがし魔」が各人の枕もとにうろつくことになった・・・・」と。休憩時間は山道を散歩する以外何も遊ぶものがなかったので、宮本君の提案でフォークダンスをすることになりました。西垣、今崎、東の3氏でマンドリンとギターの即席バンドを作り、曲目はおなじみの「わらの中の七面島」や「サーカシアン・サークル」等でこれは今もクラブの伝統のーつとなっている様です。春の合宿後5月20日に神戸の農業会館で初めての有料演奏会を持ちました。不慣れなことばかりでありましたが、お客さんは超満員に入ってくれましたし第2部に神戸マンドリンクラブのおじさん違のバンジョー合奏などを繰り入れ、ラジオ関西アナウンサーの巧みな司会のおかげで全員フルに日頃の成果を発揮することが出来大成功のうちに終ることが出来ました。そして学内、学外からもらった沢山の花束にかこまれた感激は言語に表し難い ものがありました。この様にして我々は奇跡的な成長をなしとげつつその秋の第一回定期演奏会に突入して行ったのであります。
紙面の関係上これ以上書くことが出来なくて残念ですが短かい学生生活をこの様に楽しくクラブで過ごすことが出来たのを大変うれしく又誇りに思っています。そして我々が築いたこのクラブが今や大世帯となり学校の内外で大いに活躍している姿を見て、 とてもたのもしく又うれしく思っている次第です。マンドリンクラブが今後共ますます発展することを願って止みません。
現在のクラブ
部長 中野 雄二
マンドリンクラブも再興後6年の月日を経、初期の状態とは色々な面において異って来ました。
再興時十数名であった部員も年を経るにつれ、その数を増し現在では百三十名にまで増加してきました。しかしその増加もやっとこの一、ニ年間に一段落し安定してきたようです。クラブ員の増加と並行してクラブ内の状態を考えてみる場合、人数の増加と共にクラブそのものが充実してきたかどうかは大いに疑問です。
再興時部員は十数名であったとはいえ、それぞ れの部員としての意識は非常に高く全員一弾となってクラブに打込んだということです。現在の状態を考えて見ますと、部員の数も増し、クラブとしての外見は堂々としたものとなっています。しかし、 中味を見た場合運営を経験し、クラブのあらゆる苦しみを味わってきているはずの4年生、又現在運営にあたっている3年生の中にも、幽霊部員がありますし、2年生、1年生にいたっては幽霊部員がいないのが特殊な状態でさえあります。もちろんクラブに対する態度というものは個人々々の 生き方によって一様でないことは当然でしょうが、一つの団体に自ら好んで参加している場合を考えてみて当然なすべきことをなしていない人がいることは少々奇怪な現象です。現在のクラブ員の中には、授業、勉強という最も安全なかくれみのにかくれて練習を怠り、その他のやるべきことを怠っている人が大変多いように感じられるのは、ぼく一人の邪推でしょうか。クラブはヒマな時にやるものでないということは明らかです。又自ら好んでクラブに参加しているからには自らクラブに参加する時問はつくるように努カするべきでしょう。又部員の数が多いことにより部員各々の、部員としての自覚が低くそれに部員が自分の職分を忘れているようなことが大変多いようです。もっともよい例は、技術の面を見た場合、弾ける人と弾けない人、又は弾こうと努カしている人と全然努カしていない人との差がはっきりあらわれているところに見られると思います。
これまで書いてきたことを読んでマンクラには、 全然よいところがなく、そんなクラブが続くのかと思われるかもしれませんが、これまでは、現在 のクラブにおける問題点をあげたまでで、マンクラの良い面というのは、あげればきりのないことだと思いますし、又それは、個々のクラブ員には充分にわかっているところです。今後より一層の クラブの発展をめざす場合に運営にあたっているぼく達、又これから運営にあたる2年、1年の人が、 クラブの最大公約数において、クラブの生きる道を決めるのではなく、規約にかかれている目的に向って、現実の状態に押し流されることなく、又妥協することなく進むことが一番良い道ではないでしょうか。そうすることにより、部員の減少、一時的クラブの停滞というものはありうるかもしれませんが、結局、一時的困難をさけ、曲折ばかりしていたのでは、クラブにおいて進歩どころか、退歩があるのみ、のような気がしてきます。現在の状態は必ずしも悪い状態ではないでしょうが、最良の状態というには、程速い状態でしょう。
クラブも幼年期を終え、少年期に入り、今から色々危険なことに挑戦することによってより一層、大きく発展していくものと思います。